こんにちは、どりーです。
今週のお題「引っ越し」
結婚してから約25年。これまでに引っ越した回数は計9回。
同じ地域での引っ越しも含んでいます。
改めて数えてみると、すごいなあと自分で感心しちゃいます。よく、こんなに引越したものです。
それも、結婚当初は「転勤はないから」という話だっただけにオドロキ。ってもやは詐欺レベルではないですか。
そもそもダーリン(夫)はエンジニアなので、研究所とか工場がある事業所に一生居続けるのが通常のパターンなのです。
ですから、結婚する時も「親と同居するのは可能?」という、すごい質問を投げかけられていました。彼は京都のちょっと地方の出身で、いわゆる本家の長男なのですよ。そして義父はすでに他界し、義姉も嫁いでいたので、義母と二人ぐらいだったのです。
母親思いの優しい息子(?)なため、同居はマストだったのでしょう。京都の実家で義母と同居することを求められたのでした。
まあ当時の若かりし私は「そうね、状況によって、考えましょう」と、承諾したんだかどうだか曖昧なナイスな表現で回答したのでした。
いやいや、別に拒否したとか、とんずらしようとか、そういう企みあったわけではありませんよ。あくまで正直な気持ちです。
というわけで、初めこそは「新婚だし二人だけで暮らしてみたら?」という感じで、小さなハイツに住みました。2LDKでした。
ちなみに、「いずれは同居」というのがわかっていたので、いわゆる婚礼ダンス一式を嫁入りの際に買ってもらっていました。そういう時代ですかね。和ダンス、洋ダンスにドレッサーもついてる立派なヤツです。
結婚して2年が過ぎたころ、なんとダーリンの部署がまるっとそのまま三重県に移転することになったのです。
もうね、そりゃあ大変でしたよ。
転勤があたりまえの銀行員や商社マンと違って、地元密着のエンジニアですから。それに京都の人はとかく京都から離れたがらないものなのです。
さんざん面談をして、行きたくない!ともめて、それでもしょうがなく転勤することになりました。義母を置いていくのはさぞかしつらかったことでしょう。(奈良と三重は近いです・・・)
はい、そこからはもうネタなのか?というぐらい転勤の人生。
「転勤族じゃないんだけどね」といいながら、2~3年ごとに転々としました。
京都へ戻ってきた時は、荷物の段ボールを全部開梱したとたんに、ダーリンから「関東へ転勤」と聞き。開けなきゃよかったと後悔。
神奈川に行く時は、「東京は(東京じゃないけど)怖いところだから気を付けてね」と散々義母たちに言われ(笑)。
転勤・転居に慣れていないため、いつもドタバタで、家探しばかりしていました。(社宅がなくて自分で探すのです)
そうするうちに、今度はとうとう海外へ。
アメリカへの転勤は、もともと希望していたこともあったし、もうその頃には「同居」という二文字は、すでに頭の中からすっかり消えていました。
例の婚礼ダンスは、奈良→三重→京都→神奈川まではかろうじて連れてきていましたが、もうアメリカへは持っていけません。運べる荷物の容量が限られていますしね。そのタイミングで京都の実家へ置かせてもらいました。
結局、それが今生の別れとなりました。(笑)(涙)
アメリカでの5年の任期を終えて戻ってくるときは、ダーリンは勤務先を選ぶことができました。三重か東京かの二択です。
ただ家族の中では、関西という選択肢もありました。ダーリンは三重県に勤務して、私と子どもが京都に住むという案です。まあ、要は義母との同居です。
当時ポン太が小学6年、ポン子は2年生でしたから、今後の進学等も視野に入れて、悩みに悩んで東京を選びました。そのほうが帰国子女の受け入れも柔軟で、子どもたちにとって良いであろうと。
実際は東京とはいえ地域によって帰国子女の数には差がありますし、小学校では二人とも苦労しました。やはりちょっと異質なのですよ。キコクって。
ただ、中学以降は選択肢も多く、いろいろな出会いも経験できたので東京でよかったと思っています。
それに、結局ダーリンはそのあとも転勤をつづけており(笑)、子どもの学校のことを考えたら、もう一緒にはついていけない。そういう意味でも東京に残れたのは、良かったと思います。
さて、例の婚礼ダンス。帰国後にもちろん京都の実家から引き取る予定でしたが・・・・
洗面所には三面鏡もあるからドレッサーも場所を取るし。和ダンスなんていれる和服がないわ~
というわけで、買ってくれた両親への罪悪感もあって洋ダンスのみ、現在の家に引き取っています。ごめんなさい。
残りは・・・全部京都の実家に置いたままです。
いつか一緒に暮らせる日が来るのかしらねえ・・・
ちなみにダーリンはこのあとも引っ越し転生を続けており、プラス4回です。すごいなあ・・・
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